防災・減災への指針 一人一話

2013年11月09日
被災による世帯数減少からの復興
多賀城市 桜木南区長
齋藤 政治さん

分散する住民の安否確認

(聞き手)
 発災後はどのような行動を取られたのでしょうか。

(齋藤様)
 発災時は、町内の知り合いのお宅にいたのですが、避難のための声掛けをしなければいけないと思い、すぐに防災無線に向かいました。防災無線からは、3回ほど立て続けに、津波が来る可能性があると避難を促す放送をしました。
 震災後、区長という立場で大変だった事は、各避難所を巡って行う地区住民の安否確認でした。ほとんど毎日16時頃に、一旦、家の片付けを止めて、自転車で避難所に行っていました。大変でしたが、地区の皆さんの様子が気になったので、安否確認と元気づけを兼ねて、避難所に顔を出していました。

(聞き手)
  皆さんの様子はいかがでしたか。

(齋藤様)
 今後どうしようかと、皆さん途方に暮れたような顔でした。それに加え、夜眠れない人も多いようで、皆さん昼間に横になっている状態でした。

(聞き手)
  声を掛けた時は、どのようなお話をしたのでしょうか。

(齋藤様)
 まずは大丈夫なのか、元気なのかと確認しながら声を掛けます。
その後は、隣近所の人の安否や、その人がどこに行ったか知らないかなどを話していました。皆さんからも色々とお話を伺いまして、誰が亡くなったというようなことも聞きました。ですから、忘れないように手帳にメモをしていました。
  40数名もの方が、この地区で亡くなったとお話を聞きました。
  毎日毎日、また来るから元気でいてくださいと声掛けをして帰りました。

(聞き手)
  そのように、お互いに知っている情報を交換していたのでしょうか。

(齋藤様)
 やはり情報は交換しなければいけません。何も情報が入って来なかったり、発信出来なかったりする状況ではいけないと思っていました。

活発な住民とのコミュニケーションによる関係構築

(聞き手)
 震災前後の地域のコミュニケーションは、どのように図られていたのでしょうか。

(齋藤様)
 神社の春祭りや夏祭り、盆踊り大会など、コミュニケーションはかなり図っていました。
  4月の第2日曜日には花祭りもありました。
  その中では、子ども会で神輿を作って担ぐ催しもしていました。
もちろん、防災訓練もしていました。
  桜木地区には日本赤十字第九分団という奉仕団組織がありまして、ソニーさんのグラウンド周辺で防災訓練を行っていました。
  そんなこともあり、イベントに関しては町内でかなり実施していたと思います。
 震災後も、2011年度はさすがに何もできませんでしたが、2012年の7月には復興祭りをしました。
  まだ町は復興していませんでしたが、市の協力で集会所を建て直したので、そのお披露目を名目にやらせて頂きました。
  「町が全く復興していないのに復興祭りとは何事だ」など、多少の批判はありましたが、このような活動を積極的に行っていかなければ、地域が元気になれないのではないかと考え企画しました。
  当然ながら、地区の皆さんや役員の方にも協力してもらいました。
  各避難所に町内の方がいたので、各所にポスターを張って頂き広報してもらったおかげで、お客さんがかなり来てくれました。
  餅つきや流しそうめん、ポップコーンなどの催しを子ども向けに行い、多賀城市からも、いろいろとアドバイスをもらいました。
  今年も夏祭りをしましたが、これもまた盛況で、子どもたちもたくさん来てくれました。

(聞き手)
 つまり、地域を盛り上げる取り組みを沢山なされたという事でしょうか。

(齋藤様)
 そうです。元気になってもらいたいと言えば、月並みな言葉かもしれませんが、皆さんに笑顔になって頂きたいと思い、取り組んできた事でした。そうすることで、住民の方との繋がりをいっそう深められると考えました。

(聞き手)
  震災後と震災前の住民の方の繋がりの変化というのは、どのようなものでしょうか。

(齋藤様)
 この地区は、おおよそ半分の住民の方が、引っ越されたりして、いなくなりました。
  以前は640世帯ほどの住民が居りましたが、今では340世帯まで減っています。
  ですから、一層コミュニケーションが大事になってきます。
  私は役員会に参加したり、防災訓練をした時には、皆さんに積極的に挨拶をして、色々とコミュニケーションを取るよう心掛けています。
  防災訓練時の挨拶もざっくばらんに、いつでも気軽に付き合えるような話をしなければ、皆さんなかなか寄って来て頂けないので、冗談交じりに話すようにしています。
 少々話が飛びますが、城南小学校に避難した方の中で、息子さんが北海道にいるので、そちらに引っ越した方がいます。その方は敬老者だったので、今年の敬老の日に、お祝いの品をお送りしました。そうしたら、電話が掛かってきて、2年半ぶりにお話をする事が出来ました。

(聞き手)
  では、震災前と後では住民との繋がりは変わりなく、ざっくばらんに話をしながらの関係を築けているという事でしょうか。

(齋藤様)
 そうですね。気軽な感じで皆さんとコミュニケーションを取っているつもりです。

(聞き手)
 多賀城市にお住まいになられて何年になるのでしょうか。

(齋藤様)
 多賀城に住んで45年くらいになります。昭和44年に仙台新港の開発の関係で、仙台市中野から移ってきました。

(聞き手)
 地域の年齢構成はどのようになっていますか。やはりご年配の方が多いのでしょうか。

(齋藤様)
 おっしゃる通り、ご年配の方が多くいます。昔と言っても、この辺りは昭和40年頃から人が住むようになった地区ですから、あまり大昔から住んでいる方はいません。ただ、持ち家の人たちは少し長く住んでいらっしゃる方が多いです。
  この辺りは仙台のベッドタウンで、多賀城は工場地帯やアパートが比較的多く、若い方がアパートやマンションに多く住んでいます。今のところ、割合としては半々くらいだと思います。

想定をはるかに上回る津波被害

(聞き手)
チリ津波や宮城県沖地震、水害などは経験されていらっしゃいますか。

(齋藤様)
 はい。チリ地震津波が起こった時は、仙台港の辺りに住んでいました。あの頃はまだ20代で、興味本位で、海に見に行きました。
  宮城県沖地震の時は、現在の住まいにおりました。
  昭和61年8月5日の大雨の時は、ここも大水害で冠水した経験があります。

(聞き手)
  今回は過去のそういった経験が活かされたのでしょうか。

(齋藤様)
 今回の地震では、津波のことは想定していませんでした。
地震に関しては、「宮城県沖地震は必ず起きる」ということを、町内定例役員会などで毎回、口酸っぱく、私が言っていました。
  津波については、道路を水が流れて来るようなあいまいな認識で、考えが甘かったのかもしれません。
  報道機関やテレビ、ラジオなどでも地震が起こると言われていたし、今すぐではないですが、いずれやってくると言われていました。
  自分が、注意喚起の発言をしていながら何も準備していないのはよくないので、自宅の物置に震災に使うための物をたくさん用意していました。
  しかし、ガソリンや水、簡易トイレに衣服など、色々準備しましたが、それらは全て津波を被ってしまい、結局は捨てる事になりました。
  町内の集会所と宮内地区の防災倉庫にも、色々と入れておきました。薬や水、アルファ米にブルーシート、ハンマーなどを徐々に揃えていたのですが、それも一瞬で流されてしまいました。あの津波ではどうしようもありませんでした。
  私も、ここ10年ほどは、区長として防災対策や訓練の方法などの講話を聞いたり、他の地区の研修会に行って学んだりしてきました。
  南三陸町の防災センターにも足を延ばしましたが、それでも、今回の津波では、うまく動く事ができず、悔しい思いをしました。
  実際、私も、津波に流されてしまい、危ういところで九死に一生を得ています。

(聞き手)
  それは、見回りに行った時の事でしょうか。

(齋藤様)
 見回りをして、最後に集会所に行ったのですが、津波の影響でそこに孤立してしまいました。そして、どうにか自宅に帰ろうと車に乗ったところで流されてしまいました。今考えると、よく助かったと思います。
 あの時は、色々な事がありました。
  防災無線で避難放送をした後、宮内地区のほぼ全てのお宅に声を掛け避難するように伝えていき、産業道路の手前にあるマンション住民にも早く逃げろと伝えていました。
  そのマンションの6階~7階の住民たちは、「津波がそこまで来ているから早く逃げて」と叫んでいたのですが、それでも私は津波のことなど全然頭になかったので、集会所が一時避難所になっていたので、そこに誰かいるだろうと思い向かいました。
  案の定、5人くらいの人がいました。後日、聞いたのですが、そのうち2~3人くらいは逃げられたのですが、残りの人は取り残されてしまい、一晩中そこにいたそうです。
 私も車に乗って家に帰ろうとしたのですが、すぐに、車と一緒に流されてしまいました。
  そして、何かの拍子で車が止まったのですが、水圧でドアが開けられず、ロックを蹴飛ばして、ようやくドアを開ける事が出来ました。
  しかし、水が中に入り込んでしまったので、どうにか濡れないように上に上がろうとしました。2回程滑り落ちてしまい、その時に腰くらいまで水に浸かりましたが、3回目でようやく車の屋根に上がれて、助けを待ちました。車の屋根に上るまでは1時間以上掛かってしまいました。
  そして、夜になり雪が降り始め、とても寒くなりました。体温だけは下げないように手だけは動かして軽い運動をしました。やがて、自衛隊のボートが助けに来てくれました。

(聞き手)
 町内を見回りした時は、普段の服装をしていたのでしょうか。

(齋藤様)
 はい、普段の服装です。何も準備をしていなかったし、津波の予想もしておらず、ラジオのスイッチひとつも入れずに駆けずり回っていました。
  もし、何かの形で津波情報が得られていれば、確実に逃げていたと思います。

東日本大震災前年の経験がもたらした油断

(聞き手)
  震災前年に津波警報が発令された際のことを教えてください。

(齋藤様)
 その日は日曜日で、朝に津波警報が出たので、すぐに町内の役員を集めて対策本部を設置しました。
  日曜日だった事もあり役員は全員いて、民生委員は、ご年配の方がいる家に声を掛けて回りました。
  私も車で町内を回り、防災無線から放送を流しました。
  13時から15時の間に大きな津波が来ると言われていましたが、結局、砂押川を30センチほどの波が上って来た程度でした。

(聞き手)
 その経験があった分、逆に、大きな被害はないと思ったのでしょうか。

(齋藤様)
  警報は鳴りましたが、結局、あの時は、大きい津波が来なかったので、今回の震災では油断した部分もあるのではないかと思います。

世帯数減少からの復興計画

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に対しての思いがございましたら、お聞かせください。

(齋藤様)
 先ほどお話した通り、震災前の桜木南地区には600世帯以上あったのですが、震災後の今は340世帯ほどになっています。
地区で一緒に暮らして来た方がまた一緒に暮らせるような復旧復興を早く進めて、また以前のように暮らしていけるようになってほしいというのが私の願いです。
 この辺りでもかなりの家が空いてしまって、閑散としています。徐々に家が建って、戻って来ている所も見受けられますが、貸家やアパートがなくなってしまっているので、それらも復旧復興していけば、もとの暮らして来た住民の数や世帯数くらいには戻ると思います。
  今までずっと一緒に暮らして来て、それがいきなりいなくなってしまって、もう帰って来ないと考えると寂しい思いがあります。
  もし戻ってこられるのであれば、また、もとのように一緒に生活できれば良いと思います。

(聞き手)
  また皆さんが戻って来て、賑やかな地区になる事が望みだという訳でしょうか。

(齋藤様)
 そうですね。もう少し戻って来て頂けると有難いです。
  今まであったものがなくなってしまったので、出来るだけ多くの方々に戻って来て頂けたら、また元通りに一緒に生活できるようになるのではないかと思います。

震災経験を伝え、残す手段

(聞き手)
  後世に伝えたい事は何かございますか。

(齋藤様)
 今回の震災経験を何か記録に残しておいて、一目でわかるようにして頂きたいです。私は今度、墨で板に震災の事を書いて、天井裏にでも置いておこうかと思っています。
  他にも、押入れの奥の、普段は見えないような所にでも墨で書いて、例えば、家を解体するような時に、それを見つけるような伝え方も良いのではないかと考えています。
  震災の記録が書かれた書類もたくさん持っていますが、それだけではなく、自筆で何が起きたかを後世に残そうと思っています。
  町内でも、何かに書いて残していくしかないように思います。
  あるいは、八幡神社には津波の石碑が立ててあるので、自宅でもそういった一目でわかる何かを置いて、語り継ぐべきです。
  今回の震災の経験を忘れたり、忘れられては、絶対に困ります。

(聞き手)
 お孫さんに何か伝えている事はありますか。

(齋藤様)
  「命てんでんこ」です。震災後に流行った言葉ですが、孫にこの言葉の意味を理解してもらわないといけないので、簡単に話すようにしています。
  「地震が来たら必ず高い建物に逃げるのだよ、命てんでんこだから」と、たまに言っておかなければいけません。
  この辺りは山や丘がありませんので、高い建物に逃げ込むしかありません。
  防災訓練の時にも、桜木南区には丘や山、高台がないので、高い建物に逃げるしかないと、くどいくらいにしつこく言っています。
  そのことは、地区の皆さんに耳を傾けて頂いて、頭に入っていると思います。

情報と命を守ることの大切さ

(聞き手)
  多賀城市の今後の復旧復興に向けて、何かあればお聞かせいただけますか。

(齋藤様)
 仮設住宅に住んでいる方からは、もう少し支援してほしいと言われることがあります。小さくても構わないから、窮屈な仮設住宅ではなくて、早く自分の家に入りたいとおっしゃられます。
  その点については、市だけでなく、県や国からも支援してもらわなければいけません。
  そうした支援を少しでも多くしてもらう事で、早くご自宅に戻れるのではないかと思いますので、市にも県にも国に対しても、お願いしたいところです。

(聞き手)
 他に何か言っておきたいことはございますか。

(齋藤様)
 震災当時、市職員や情報が来ないという事が一番の問題だったようです。
  ですが一方で、情報が来ることを望むのはちょっと無理ではないかという話も聞こえてきました。
  確かに、市職員だって全員が安全な所にいたわけではないでしょうし、来なかったというより、来られなかったのかもしれません。
  しかし、この先、この規模の震災や災害はないとは限りませんから、情報を持って来てもらって、情報を知りたいと思う面はあるでしょう。
  当時は食べ物がなく、私の所に食べ物がないという、地区からの相談が相次いだので、市役所に行って、食べ物をもらって来たこともありました。
  町内巡視の時に自宅避難者の方から同じことを言われたこともありました。
  市職員には、そういったことに関する情報を持って来てもらえれば、住民も安心するように思います。
  避難所だけでなく、自宅避難をされていた方も、この地区にかなりいました。そういった方々にも情報を発信して頂きたいです。
  もちろん、市職員の皆さんも大変だったことは想像がつきますが、それでもお願いしたいことです。